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20 音楽
「お前の奏でる音は私の心を捕らえて離さない」
曹丕は妻、甄姫にいつも口癖のようにそう呟いていた。
「我が君にそう言われるのはとても光栄ですが、わたくしにとっては、そうおっしゃってくれる貴方のお声がわたくしの
心を捕らえて離しませんわ」
「フッ…上手いことを」
「いいえ…本当のことを言ったまでです」
「甄…」
「我が君…」
そんな昼下がりの甘い会話に聞き耳をたてる人物が、建物の陰に一人。
「奥方。先程の会話、聞かせていただきました」
「まあ、盗み聞きとは汚らわしい」
眉尻を上げた甄姫の目線の先に立っていたのは、司馬懿だった。
「悟られないように気をつけてください」
「そんなことあなたに言われなくともわかっております」
フンと司馬懿から目線を外し、甄姫は足早に自分の室に戻っていった。
普段より大きな音を立て、室の扉を閉める。
甄姫は少し司馬懿に心を乱されたと思っていた。
治まらないいらいらを沈めようと思った。
部屋の隅にひっそりと置かれた鍵穴の付いた小箱に小さな鍵を差し込み、ゆっくりと蓋を空けた。
中に入った物を見て、甄姫は少し笑う。少し気持ちが高揚る。それを両手で大事に持ち上げた。
それは金色に光り輝くトランペットだった。
小さな子供がショーウインドウの中に飾られたトランペットを物欲しげに眺めるように。彼女はそれを見つめていた。
吹きたいでも吹けない 此処で吹けば何事かと大勢の人間がとんでくることは目に見えていた。
河原に行って吹きたい。港でテトラポッドに片足をかけて吹きたい。
しかし、中国の川は広すぎたし、港を知らない甄姫にはどうすることもできなかったのだ。
司馬懿だけは彼女の気持ちを知っていた。
何故知っているかは後ほど触れるが、とにかく知っていた。
甄姫はそのことをとても不快に思っていた。
知っているのは司馬懿だけ。我が君に近いあのうすら青い顔をした軍師だけ。
いつ言い触らされるか気が気でなかったが、そういう様子もない。どうやら曹丕には内緒にしてくれているようだ。
柔らかな音曲を好む我が君が、荒々しいトランペットの音を好むはずがない。
そう思いながら、甄姫は優しく金色に光り輝くボティーを撫でるのだった。
司馬懿は自室で先程のことを思い返していた。
甄姫がトランペットを好んでいるのを知ったのはつい最近の事だった。
Jazz好きの集まるサイトのチャットを覗いていたところ、PinkyGirlというHNの人物が
「旦那にトランペット好きを告白したいが、言い出せない」
という悩みを告白しており、その言い回しや雰囲気がどう考えても甄姫であり、PinkyGirlが語るその旦那と呼ばれる
人物がどう考えても曹丕であったのだ。
長い時間ROMっていた司馬懿は、最後に「横笛時代遅れ乙」で締め括られたそのチャットの事を翌日甄姫に話した。
はじめ甄姫は否定していたが、「我が君には内緒にしてください」と、チャットのことを認める発言をし、恥ずかしそう
に、その場をたった。
それから彼女からそのことに触れることはなかったが、司馬懿は気にかけていた。
何故なら、彼は甄姫のトランペットと共に、ピアノを弾きたかったのだ。
Jazz好きが集まるチャットに顔を出すくらいなので、それとわかるであろうが、司馬懿のJazz好きは相当なものであっ
た。
その日は甄姫がいたのでROMっていただけだったが、普段は「娑婆懿」というHNで自分の豊富なJazzの知識を披露
し、娑婆懿がチャットルームに現れると「娑婆懿さん、今日も色々教えてください」と、娑婆懿を尊敬する輩までいたく らいだった。
そんなところに現れたのが甄姫であり、トランペット好きのPinkyGirlであったのだ。
甄姫のトランペットの腕前がどの程度のものかはわからない。しかし、やはり生音のトランペットと自分の長い指が奏
でるピアノとのセッションができればそんな幸福はない。
彼は机の引き出しから自分で紙に描いた鍵盤を取り出し、ドの音に指を乗せ流れるようにドレミの歌を弾く真似事をし
ながら小さい声で唄うのだった。
その頃曹丕は自室でぼんやりと考えていた。
甄姫の笛から奏でられる音色に酔いしれる。
そんなことをするふりはもう面倒だと思っていた。
彼が書物の並んだ棚から一冊の本を取り出すと、その本のあった場所の奥の壁に小さなボタンが現れた。
ボタンを押すと、壁の一部が動き出し、その奥に小部屋が出現した。
執拗な(?)カラクリで現れた隠し部屋に足を踏み入れ、曹丕はニヤリと笑った。
そこには見事なドラムセットが置かれていた。
セットに囲まれた椅子に浅く腰掛け、左足をスネアのペダルにかける。右足はバスドラムのペダルにかけ、目を閉じ
た。
昔見たドラムパフォーマンスを思い出していた。
ドラマーは長い髪を振り乱し、一心不乱にドラムを叩いていたが、感極まったのか綺麗に並べられたドラムセットを端
から倒し始めた。
観客は歓声をあげ、ドラマーを煽る。
それに答えるように倒し続けるドラマー。
最後にドラムの脇に倒れるドラマー。
そこまでのドラマを見た曹丕は翌日にはドラムセットと「はじめてのドラム講座」という本を通販で購入していた。
もちろん彼が自分の武器を双剣に選んだのも、暇な時にスティック捌きを練習するためだった。
一度頭上でスティックをクルクル回すパフォーマンスを練習しようとしたら間違えて剣を回してしまい、手を切ったりもし
たが、それがなんだというのだ。
練習の成果が実り、曹丕の腕前(ドラム)はメキメキと上達していったが、それを披露する場所もなく日々が過ぎてい
った。
彼には今ではどんなジャンルのどんなリズムの曲でもたたける自信がついていたのだった。
いつの日か、この腕前を人前で披露したい。
ドラムをなぎ倒すパフォーマンスができなくとも、観客の前で歓声を浴びながらリズムを刻みたい。
国を取ること、治めることよりもそちらの方が彼の夢になっていたのだった。
それぞれの人間がそれぞれの思いを胸に秘める。
その思いが一つになり、実る日はくるのだろうか。
そうだよね、あとはウッドベースが欲しいところだよね
終
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