9 悪と正義


昨晩から徐晃の調子を狂わせていたのは奥歯の強烈な痛みだった。
武とともに歯も磨いていたはずなのだが、虫歯箘の凶暴さには勝てなかったようで、いくら五虎将に数え上げられる
有能な将といえど、この痛みだけには耐えられなかった。
昨晩は奥歯のズキズキする痛みで眠ることもできなかった徐晃は朝からボーっとしていた。
華陀先生にもらった痛み止めを飲んだからだが、それもいつまで効いていてくれるか定かではない。
実は先程曹操に呼び出され、何か頼まれていたのだが、上の空で何を言われたか覚えていない。
自分で自分を情けないとは思ったが、痛いのだから仕方ない。
早いうちにもう一度曹操のところに行き、先程の話を聞き直して来よう。
嫌味を言われても仕方がない。
そう考えて足を運んでいた途中のこと。

「徐晃殿、足取りがおぼつきませぬな。いかがなされましたか?」
声をかけてきたのは張僚だった。
「いつも姿勢を伸ばしてしゃきしゃきと歩くあなたが、今日は老人のようだ。」
「はあ…ちょっと…」
「恋ですかな?百戦練磨のこの張文遠が相談に乗って差し上げてもよろしいですが」
うざったい。徐晃はそう思っていた。
歯さえ痛くなければうまい具合に話しを合わせることもできたかもしれないが、今日の徐晃は歯の痛みのおかげで少
し苛立っていた。
「違うとしたら…便秘ですかな?ふむ、それなら私にはどうにもできんが、繊維を取るといいでしょう。」
「………」
「それも違うなら…」
「うるさい!黙っていられんのか!」
普段声を荒げることのない徐晃が大声で怒鳴っていた。
しかし、すぐに
「いや、申し訳ない。つい」
「いやいや、こちらこそ失礼しました。便意を我慢しているところを呼び止めてしまって、申し訳なかった。早く厠に行っ
てくだされ」
「いや、ちがっ」
張僚は否定も聞かずに足早にその場を立ち去った。
その背中を見詰める徐晃を振り返り
「う●こを我慢するのは身体に悪いですからな!」
そう叫んで視界から消えていった。
「………まぁいいか」
徐晃はまた歩き出す。

しばらく歩いていると今度は典韋に会った。
「よう、浮かない顔してるな?どうした?」
余程辛い顔をしているのだろう、典韋は心配そうに徐晃の顔を覗き込む。
頭部に当たる光りが反射して眩しく、徐晃はますます眉間に皺を寄せた。
「どっか痛いのか?」
「実は昨晩から歯が痛みまして。」
素直にそう言うと、典韋は「そうか」と心配そうな顔で「解決策があるぜ?」続けてそう言った。
この痛みが和らぐならどんなことでもしよう。
とうとう華陀先生に頂いた薬の効き目も切れてきたし。
「お、教えて頂けますか?」
徐晃の瞳に一瞬光りが射した。
もののふのそれだった。
「ああ、いいぜ。どっちの歯がいてえんだ?」
「左です」
「よっしゃ!だらっしゃーい!」
『バシッーン!』
訳のわからない掛け声をかけて典韋は徐晃の右頬に張り手を喰らわせた。
「…な、何をするのですか!いきなり!」
いきなり頬を打たれ、少しよろけながら徐晃は典韋を睨みつける。
「どうだ?」
「はあ?」
「これで左側の痛みがやわらいだだろ?はっはっはあ!」
左頬が痛いなら、右も痛くすれば左の痛みがやわらぐ論。
確かにそうかもしれないが、怪力で打たれた右頬が酷く痛んだ。
だからといって左頬の痛みは無くなったわけではない。
右が痛いからそれほどではないかも程度のことだ。
実際先程より事態が悪化している感じがするのは気のせいではない。
笑いながら「じゃーな」と背中を向ける典韋に徐晃は少しイラっとした。
とりあえず左と右の両頬を押さえながら、曹操の元に足を早めた。

「失礼いたします」
曹操は室で山積みになった仕事を片付けている最中だった。
ちらと徐晃を見て、すぐに書簡に目を落とし「どうした、何か用か」と続けた。
少し苛立っているようにも見えた、が、もう一度顔を上げる。
「なんだ、その顔は」
どうやら歯痛と典韋に打たれたのとのダブルパンチで腫れ上がった両頬を見て言ったようだった。
曹操は少し笑っていた。
「いえ、ちょっと」
「婦人と喧嘩でもしたか?手跡がついているぞ」
曹操はとても楽しそうだった。そしてしつこかった。
「徐晃は、どんなことで喧嘩するんだ」とか
「お前の顔をそれほど腫れ上がらせるとは随分な怪力の持ち主だ」
とかと、ニヤニヤ笑いながら痴話喧嘩と決め付け話しを進め出した。
溜まっていた仕事がよほどつまらなかったのだろう。
室に入っていった時の苛立った顔とは真逆の表情をしていた。
「…ちがいまする。実は昨晩からの歯痛と…」
徐晃は今までの経緯を話し始めた。
本当は先程ボーっとしていて聞き逃した事を聞いたらすぐに帰ろうと思っていたのに。
その頃には華陀先生に貰って飲んでいた痛み止めの効果も完全に消えていた。
早く話しを終わらせて、もう一度薬を貰いに行こう。と思ったていたのに。
話しを聞き終えた曹操は「ふむ」と頷き「あいわかった良い方法があるぞ」と。
「薬ばかり飲んでいても根本をなんとかしなければ何も変わらんだろう」
「はあ、そうですな。後で歯医者に行こうと思っていますので」
この時代に歯医者があるかどうかは知らないが、とにかく一刻も早くこの部屋を出たかった。
何か嫌な予感がしたからだ。
「それじゃ、遅いだろう。今此処で儂が抜いてやる!」
「はあ?」
「一度人の歯を抜いてみたかったんだよね〜」
そういうと、座っていた机の引き出しからペンチを取り出しそれをガチャガチャと動かし始める。
「な、な。な、なんという鬼畜………失礼いたします」
額から流れる汗を拭いながら徐晃は扉の方に向き直り部屋を出て行こうとする。
しかし、徐晃が手を掛けるより先にその扉は開き、許楮が入ってきた。
「おお、なんというグッドタイミング!許楮!徐晃を抑えておけ!後で腹一杯肉食わせてやるぞ!最高級の松坂牛じ
ゃ!!」
松坂牛腹一杯という言葉に許楮の目は獣のそれになっていた。
「松坂牛腹一杯だ〜よ〜」
多分今許楮に人間の言葉は通じないだろう。
背中から怪力で羽交い締めにされた徐晃にはもうなすすべなどなかったのだ。

「今、悲鳴が聞こえなかったか?」
「ああ、聞こえたな。」
そんな会話が近辺ではあちらこちらでなされていたという。

 徐晃は歯痛からは逃れられたが、抜糸の痛みと出血、吐き気で数日間眠れなかった。
彼はあんなことをされても生涯曹操に忠誠を尽くしたそうだ。


 終わり


 涙がでるわ