5 普通


彼は父を失ってからあまり表にも出ずに、家で酒ばかり飲んでいた。
家の手伝いの者が気をきかせて
「馬超様、たまには外の空気を吸ってこられては」
と、言ってくれても、黙って頷きはするが、表に出ることはなかった。
どうでもよかった。何もやる気が起きなかった。
酒は色々な事を忘れさせてくれたし、すぐに眠らせてくれた。
しかし、夢によく父が出てきて馬超を困らせた。
そのたびに自分はファザコンだったのかと思い悩まされる。

次の夜辺りから馬超の眠りを妨げる事がまたできた。
毎晩馬房の方から聞こえる耳障りな声。
「おーい、おーい」
手伝いも帰して、間違いなくこの家には馬超一人だけだった。
霊やもののけを信じるわけではないが、やはり怖い。
それほど気味の悪い消え入りそうな声。馬超は毎晩布団を頭までかぶり、朝まで震えていた。
そしてそれが終わると今度は奇妙な音。
「ピョロロロ〜ピョロロロ〜」
弱々しい口笛のような。隙間風とは違うような。
確認しに行く勇気もなく、なんだかわからずに、毎晩震えながら眠れぬ夜を過ごした。
馬超は怯えていたのだ。
眠れない事程身体に悪いことはない。
あまりにボーっとし過ぎて酒も進まない。
「顔色がすぐれませんね。医者にかかったらいかがですか?」
手伝いの者にも心配される始末。
仕方がなかった。音の主を確かめて自分を宥めるしかなかった。
馬超は意を決してその夜、馬房を見に行ったのだった。

その夜は「おーいおーい」と呼ぶ声は聞こえなかった替わりに、始めから例の奇妙な音が聞こえていた。
「誰かいるのか」
寝間着の上に鎧を着込んで、片手に槍を持ち馬房を調べにいく馬超。
余程怖い様子で、いちいち声を出しながら進んでいく。
もちろん、馬しかいないはずだ。
全部で三匹いる馬を一匹づつ手前から確認していく。
「一匹目、異常なし」
指差し確認をしながら、次へ。
「二匹目、異常なし」
そして一番奥の馬…実は先程からここからあの「ピョロロロ〜ピョロロロ〜」という音が聞こえてきていたのだが、馬超
は聞こえないふりを決め込んでいた。
恐怖から。
足がガクガク震えるのを我慢して、三匹目の馬の前に来た。
……しかし問題もない……いや、あの音は三匹目の馬の寝息だった。
馬は気持ち良さそうに眠っている。
口と鼻を「ピョロロロ〜」と鳴らしながら。
まるで人の寝息だった。
他の馬のそれとは明らかに違っていたのだ。
馬超は思わず槍を地に落とした。
「ガシャーン」
『なんだ!?』
喋った!

確かに馬が喋ったのだ。
しかも大分野太い声で。
『おー!やあ、馬超君。やっときたかね』
「お、お前は」
間違いなく馬が喋っている。
しかも紳士的に。
『私は毎晩君を呼んでいたのに、君は私のところに来る気配が全くない。今日は諦めて寝てしまったが、いや、よかっ
たよかった。』
馬は流暢に話し続ける。
馬超は目を見開いて、口もボカンと開け、馬を見ている。
『こらこらそんなに口を開けていたら蝿が入って汚いぞ。此処は馬小屋なんだからな。』
「俺は…俺は夢を見ているのか?」

馬超は幼い頃からこの馬と共に暮らしてきた。
幼馬の頃から馬超と共に育った馬だった。
親に叱られた時は馬房に逃げ込み藁を枕に馬と共に寝た。
馬とは相通じていると思っていた。
だから話しができたらいいと思ったこともあった。幼い頃は。
しかし、そんな感情も歳を追うごとに忘れていたが。

『父親が死んで随分落ち込んでたようじゃないか。』
「俺は…」
『そんなに落ち込むことはない。父親は君のせいで死んだわけではないだろう。元気を出さねば駄目だろう。兄弟だっ
て心配しているよ』
「お…俺は」
『大丈夫だ、安心しなさい。私はずっと君を見守っているから。』
「………」
『君なら大丈夫だ。しっかりこの家を守っていけるよ』
「う、うわーん!!」
馬の言葉を聞いているうちに馬超の眼からは大量の涙が溢れ出し、いつの間にか馬に抱き着いて大声で泣いてい
た。
ずっと、誰かの言葉が欲しかった。
大丈夫だと言って欲しかった。
誰でもよかったんだ。
馬に話しをさせたのは馬超自身だったのかもしれない。

その夜、人間一人と馬一匹は一晩中語り明かした。
幼い頃初めて背中に乗せてもらった時のこと。
共に草原を走り回ったこと。
あの頃はまだ若かったな、と今では老馬になった彼は昔を懐かしんだ。
『君は強い。父にとって君は自慢の息子だった。』
褒められていることより、馬の声が耳に心地よいことの方が馬超を喜ばせた。

そう、その声は父の声そのものだったのだ。

心地よい声音と、つもる話は馬超を落ち着かせ、酒の力を借りずとも馬超に眠気をもたらす。
そしていつのまにか、幼い頃のように藁を枕に寝入ってしまった。
馬はそれを愛おしそうに見詰め、自分も目を閉じた。
翌朝、馬超を眠りから醒ましたのは馬のいななく声だった。
馬超は身体を起こし、何度も馬の背中を撫で、昨晩のことを思い出す。
彼自身、昨晩の事が夢か現川か区別がついていなかったのだが、そんなことはもうどうでもよかった。
昨晩の出来事は馬超の中でずっと忘れることはないだろう。
そして、父のことも。

「たまには散歩にでも行くか」
老馬は嬉しそうに小さくいななく。
そして鼻先で背中を指し、乗れと合図する。
その瞳は『老馬だからと遠慮することはない』と言っているようで、馬超は少し笑った。


終わり


引きこもりを助ける話。